★いぢち恭子のプロフィール★
長年ダンスと整体研究を通じて身体表現を追及してきた。
3.11の東日本大震災と原発事故で大きく人生が変わった。
しかしもしかしたら、「自分のやりたいことをやる」という
大元の性格は全然変わっていないのかもしれない。
父・伊地智啓は映画&TVプロデューサー。
(代表作『太陽を盗んだ男』『セーラー服と機関銃』『あぶない刑事』シリーズ等)
母方の祖母・梅村蓉子は映画女優。また母方の祖父&伯父をはじめ親戚が映画館経営に携わるなど、
微妙にバイアスのかかった環境で育つ(「水商売の家柄」と言われたことも)。
なお、遠い姻戚に旧・社会党の議員がいたことが後日判明してびっくり。
《特技》ツボ押し(その人の痛いところはほぼ一発でわかる)
《趣味》読書(コミック含む)&舞台・美術展鑑賞(最近ほとんど行かれない)&カラオケ(最近の歌はほとんど知らない)
《フェイバリット》
舞踊家……マーサ・グラハム、イリ・キリアン、大野一雄
画家……カンディンスキー、ミレー、ルドン
作家……坂口安吾、澁澤龍彦
漫画家……岩明均、萩尾望都、平野耕太、市川春子
1964/年川崎市多摩区に引っ越す。
音など筒抜けの小さな家で、父の好きなJAZZを浴びるように聴いて育つ。物心ついて最初に覚えた曲名は『TAKE FIVE』。恐らくその影響か、今日に至るまで変拍子好きに。
きっかけは全然覚えていないが、保育園に通う頃からしきりに「バレエをやりたい」と言い始めたらしい。両親、「飽きっぽい子だから」としばし様子見。
マンガを読み出したのもこの頃。手塚治虫、石森(注:「石ノ森」に非ず)章太郎、白土三平などを読みながら育つ。今にして思えば、幼児の頃からずいぶん過激な作品を愛読していた。少女マンガに手を伸ばすのはやや後。
小学生になっても懇願が収まらず、根負けした両親のチョイスで近所の幼稚園のバレエ教室に通い始める。ところがこの教室、看板こそバレエだったが先生はバリバリの現代舞踊家だった。
初めのうちこそヒラヒラしたお衣装で児童舞踊など踊っていたが、4年生あたりから振付が完全なコンテンポラリー作品になった。
1976年/多摩ニュータウン落合団地に引っ越す。
当時は2車両だった小田急多摩線に乗り、引っ越し当日初めて多摩市に足を踏み入れた。だだっ広い駅前にはまだバス停がぽつぽつ置かれているのみで、街路樹も苗のようにひょろひょろと頼りなく、「今日からここで暮らすのか」と若干引いた記憶がある。
まさかその後ずっと住み続け、あまつさえ議員になるなど夢にも思わぬ頃であった。
豊ヶ丘中学校の2期生に編入される。当時は落合や貝取の子も豊中に通っていた。
まだ生徒数が少なく2クラスのみ、また学校環境が整いきらない面もあって、学年単位の合同授業が割合多かった。そのためかクラスメイト単位の記憶があいまいで、全員が同級生という感覚が今も残っている。
この豊中時代に初めてマンガ友達が出来、交換ノートでマンガを描き殴ったり同人誌を手作り(ページに錐で穴を開け紐で和綴じにするという、まさに文字通りの“手作り”だった)したりと楽しく過ごす。
一方、引き続き元のバレエ教室には電車で通った。この頃、教室の先生と一緒にマーサ・グラハムの来日公演を観に行き、感動というより衝撃を受ける。その後いつの間にか、モダンダンスに一生を懸けると思い込んでいる自分がいた。
1978年/都立永山高校に入学。
3年間、宅地造成中の通学路を自転車で往復。赤土がむき出しの道ばかりで、ところどころ深い溝の上を板が渡してあったりしたが、それなりに楽しく通っていた。人生で一番大食いだった時期、帰りに耐え切れずお菓子など買っていたお店も、今は無い。
住んでいたのは落合団地だが、中学・高校を通して豊ヶ丘商店街には相当お世話になった。特に「りんれい堂」には本や文具を買いにしょっちゅう寄った。いつしかグリナード永山に軸足が移りつつも、中高生時代の思い出の多くがあのあたりにしっかり残っている。ただ、ピーコックは高かったのであまり利用しなかった。
高2の後半、足腰を痛めてダンスの稽古を長期休止。人生で一番大食いな時期に運動をやめたため、一気に太る。
さまざまな治療を試みるも状況は改善されず、一気に人生の目標を見失う。大学進学は考えていなかったが、ダンスに代わる「やりたいこと」を探すため、急いで進学先を探し始める。
1981年/和光大学の人文学部芸術学科に入学。
校歌無し・入学式無し・クラス単位の授業無しのユニークな学風が居心地よく、かなり好き勝手にキャンパスライフを楽しんだ。1/3までは他学科の授業も選択できるシステムだったので、芸術学科生であるにもかかわらず心理学や考古学を受講していた。肝心の芸術系ではろくな勉強をしていない。
ふとしたことから受けた整体の施術によって心身の不調が劇的改善。ダンスへの欲が蘇り、レッスン再開と同時にぱったり大学へ通わなくなる。
1983年/大学中退。
指導助手とアルバイトのかたわら本格的な舞踊人生に入る。同時に整体についてもなかば自己流で研鑽を始める。
モダンダンス・コンテンポラリーダンスは恐らく最も「食えない職業」のひとつで、国内外で賞を取りまくる天才ダンサーがバイトで生計を立てていたり、稽古場を確保できずさまざまな公共施設を借り歩いて作品を創っていたりする。恐らく今は更に苦しくなっているだろう。昔のダンス仲間からの舞台の案内もめっきり減った。
子どもの頃から育ててもらった教室を離れ、さまざまな舞台を経験した。文化庁の助成公演に出演したとき、初めて日本の文化行政の内幕をかいま見る。私のような下っ端に見えたのはほんの僅かだが、それでも「これで文化を育てる気あんのか」と怒ったことはよく覚えている。
そうこうするうちケガや故障が増え、次第に体が利かなくなる。カンパニーをやめ、仲間との舞台づくりで振付・演出を担当したりもしたが、ついにダンサー生活を断念。
2009年/契約社員や派遣社員といった形態で職場を転々とする。
ダンスを再開してからはマンガは読まなくなっていたが、友人に勧められて手に取った1冊からマンガ熱が再燃。そのうち読むだけでは飽き足らなくなり、ネット上で安売りしていた絵描きソフトを購入した。
と言っても、ラクガキを楽しむ程度で作品を描き上げようというほどの野心もなかった。踊れなくなった以上は、趣味で文章やマンガを書(描)いて自分なりに余生を楽しもう、というほどの心づもりだった。
2011年/東日本大震災・福島原発事故発生
さすがの自分も1年くらいは趣味など忘れるほどの衝撃を受けた。
震災当日は職場におり、交通も通信もマヒしていたので同僚の家で一泊。家族全員無事だったが、翌日帰宅するまで全く気が気でなかった。津波と原発事故による故郷喪失の現実に触れ、それまで当たり前と思っていた「日常」がどれほど脆くまた貴重であるかを思い知る。
それまで格別意識せずにいた「家族」と、その暮らしのよりどころとなる「自分の家」「自分のまち」があるからこそ、外でやりたいことをやっていられたのだという自覚は強烈だった。
また、3.11をきっかけに敬遠していたSNSを始め、ネットや本で必死に情報を漁り、日本の原発行政の実態を知る(それまで、自分の国に54基の原発があることも知らなかった)。調べていくうち、驚いたことが3回あった。
まず、前述の通り日本がこんなにも原発に頼っていたこと。
次に、その原発が安全面から経済効率までみごとに「いいとこなし」の発電方式であったこと。
そして、にもかかわらず政府(と一部の国民)が相変わらず原発に固執していること。
被災者・被災地の支援と脱原発のため、自分には無縁と思っていたデモに居ても立ってもいられず参加。これが今のライフスタイルの原点になっている。
更に調べていくうち、原発以外にもこの国のおかしなことが沢山あり、しかもそれらがどこかで繋がり合っていることが見えてきた。もはや引くに引けぬ思いで、脱原発以外にもさまざまなデモや集会に参加し始める。
2013年/東京都知事選
宇都宮けんじ候補の選対にボランティアとして通う。このとき、「自分はもう死ぬまでこういう活動を続けていくだろう」とぼんやり感じた。しかし自分が表舞台に立つ気は毛頭なく、こうして信じられる人を少しでも支援できたら、と思っていた。
ところがこの年の暮れ、地元・多摩市の市議選に「社民党から立候補しないか」という話が飛び込んできた。「あり得ない」と全力で断る。
2014年/社民党入党
ダンサー時代もけっきょく組織には居つけなかった自分の、まさかの大転換。
社会党時代からの歴史を調べ、批判にも目を通した上で、「社会民主主義」を掲げる政党をこの国からなくしてはいけないと覚悟を決める。同時に立候補の決意も固める。
秋ごろから朝の街宣を始めるが、その際に何かチラシを作らねばということになり、ふと「マンガで描いたら少しは受け取ってもらえないか」と思いついた。これが『タンバリン通信』誕生のきっかけである。
なお“タンバリン”という命名の由来については、通信第2号を参照のこと。
2015年/多摩市議会議員選挙 初当選(定員26名中18位)
選挙戦2日目に風邪を引き、最終日に完全に喉をつぶす。
翌日の街宣及び市役所での手続きの際には、全く声が出なかった。
議員バッジを受け取ったとき、「これは自分ひとりの力では得られなかったものだ」と強く感じた。たくさんの応援・協力と、投票用紙に私の名前を書いてくれた人たちの存在がなければ、議員は議員として機能し得ない。その思いを胸に1期目の議員生活が始まった。
現在
・総務常任委員会 委員
・ICT化推進プロジェクトチーム 委員
・市議会だより 編集委員